ネットには膨大な情報が存在している。
どれが真実であり、どれが偽りであるのかどうかは
もはや全くもって判断する事も難しい時代になってきた。
では、その情報を受け入れるかどうか、どこで判断するのか、
それはフィーリング、感覚、あんがいとそんな曖昧なもので、良し悪しを判断している様に思う。
その文章を読んで、この人はきっとやさしい人なんだろうなあとか、誠実な人そうだな。
とか、こいつは口が悪いから嘘ばっかりついてそうとか。
そういう意味でいうと、文章力のある人の方が説得力があるのかもしれないですね。
とにかく
最近思う事は、私が選んでいる日々のひとつひとつが
本当に正しいかどうかは分からない。
場合によっては間違った選択をしている事もある。
という事を、忘れないように日々生きなければと、
なんとなく、そんな事を書いてみたくなったのでした。
コメントをお書きください
take (金曜日, 15 6月 2012 14:46)
どれがウソかホントか、なんてその生い立ちや目的をみれば分かるのじゃ?
誠実かどうかは、どこまで誠実にできるか、しているか、だけのこと。
真実は大切ですよ。一つ一つが心のアンカーボルトになります。
はじめの一つがウソなら、あとに続くのはみなウソです。
おせっかいなオジサンより。
りん (金曜日, 15 6月 2012 22:15)
takeさん
ああ、ごめんなさいね。
きっと、説明不足だったのかもしれません。
物事には多く、間違ってとらえてしまう事がおこっているように思います。
私がずっと真実だと思い続けてきた事が、後で間違えだったと気づいたりする事もありました。
あの人はウソをいっていると思っていた事が
あとで、実はそうでなかったと気づいたり。
それは見る角度、立場で、どうとでもとらえられる場合もあり
真実はひとつではない。
という経験を沢山してきました。
誰かがこれは真実だととらえている事が
私にとっては真実ではない事も起こりえます。
でもその人にとっての真実は、真実であり、でも、私にとっては真実ではない。
それでいいのだと思うのです。
真実はひとつではないと思うからです。
誠実である事はとても大切ですが、さまざまな事情で、そうあり続けられない事もあるかもしれません。
人の弱い部分も沢山見てきて(私自身も含め)
それが人間というものなのかもしれないです。
だから、私が今、選んでいるひとつひとつが
真実とはかぎらない。
間違っているかもしれないよと、常に思いながら、
選択していきたいと思っています。
take (土曜日, 16 6月 2012 04:24)
読み返してみたら、なんだか怒っているようにもとれる、唐突で荒っぽい書き出しでした、
ごめんなさい。
こちらも説明不足ですね、言われている内容は理解できているはずです。
「間違っているかもしれないよと、常に思いながら、・・・」は、とても大切だろうと思います。
でも、「どれが真実であり、どれが偽りであるのかどうかは・・・」はなんとか見極められるのじゃ、と思ったのでした。
私はネット上のりんさんが一所懸命生きていこうとする姿勢に真実をみましたよ。
以前書いておられた「認められたい、云々・・・」も真実ですね。
これらに二つの真実はないだろうな、事情はそれぞれ違うが、ってのが今回追加の感想です。
たしかに、宗教の違いた立場の差などでも、二つの真実ができあがりますね。
だけど、平和に二つの解釈がいらないように真実はやはり一つであってほしいと私は願ってます。
真実とはとらえどころのない言葉の観念でなく、具体的で小さな、たとえば野に咲く花のようなものじゃないかでしょうか。
野に咲く一輪の花は、何万年も人の手に触れず、自然の摂理の中で脈々と生きてます。この姿は間違いない真実です。
一方、人間の手で無理矢理改良を重ねてきた観葉植物など、元の姿さえ分からない、ウソ産物。これは事実ではあるけど、真実とは呼びたくないですね。
また生活のためにウソ産物やウソ商品を平気で真実として売る者もいます。ウソ産物を売っている自覚があればまあそれはそれで別の意味で真実でしょうが。
「生い立ちや目的をみれば、」と書いたのはこのあたりです。
自然の摂理の中で生きている真実・生命の前にたたずむと、自分の命と響き合うのが感じられます。背筋がぞっとするほどです。
アンカーボルトのくだりはこのことです。
そんなことが言いたかったのですが、長々と失礼したかも。
rinphotolife (土曜日, 16 6月 2012 09:52)
takeさん
ありがとうございます。
おっしゃられている事、なんとなく分かった気がします。
真実は一つであるけれど、私達はなかなかその真実に到達できていないのかもしれませんね。
それは案外と、すぐ眼の前に存在する、ありきたりなものであるのに
すぐ眼の前の風景にも気が付かないほど、鈍感になってしまっているのかもしれない。